悩みなんて存在しないよブログ

悩みなんて本当は無いってことをゆっくりお話ししていきます。

特別なことでなくても

「行為」の次元では、「他人からの承認や注目される必要はない」ということを先に書きました。

一方、「人は他人との関係の中に生きている限り、たとえ何もしなくても、他人から承認されている」というのは「存在」の次元でのことです。

この「存在」の次元でいえば、自分自身について、特別なことをしていなくても、自分が他人に貢献できている、と思ってよいということです。しかし、貢献することを「行為」として重要視しすぎると、貢献できない人はどうなるのかという問題が起こります。

これは、子どもや、自分が愛している人について考えるとわかりやすいと思います。その人がいるだけで十分であって、その人が自分に何かをしてくれたから好きというわけではないでしょう。これと同様に、自分も何か特別なことをしていなくても、他人に貢献できていると考えて構わないのです。

 

貢献は自己完結的

なぜ、貢献感を持てない人が多いのかというと、子どもの頃から受けてきた賞罰教育、とりわけ、ほめられて育ったことの影響ではないでしょうか。

人の役に立つようなことをする時に、自発的にではなく、ほめてほしいからという理由で行ってきたのです。その結果、「これだけやってあげたのに」と見返りを求めたり、感謝されること期待してしまう人が増えたように思います。

他者から承認の言葉をかけてもらえれば、嬉しいものですが、感謝されたり、ほめられたいと思って何かをしてみても、そのことに気づかれないことがあってもしかたありません。

私たちも他者のしていることのすべてに気づき、声をかけられるわけではないでしょう。それなのに、気づいてくれない人がいれば、腹を立てて、二度と他者のためには何もしないでおこうと決心するとすれば、おかしなことです。

一方で、承認されることを求めないという人もいます。その人の行為は、それ自体で完結します。他者から感謝されるとか、ほめられるということは問題にならないということです。その行為そのものに価値や意味があると思えるからです。

とはいえ、人からお願いされたことを嫌々ではなく進んで引き受けることは簡単なことではありません。ですが、思い立って「いいよ」と引き受けてみたら、気持ちよく感じることがあります。そんな時、他者から何かを期待しなくても、自分が役に立っているという気持ちになりますし、そんな自分を好きになれるのです。

自分の価値は他者への貢献によって得られる

どんな時に自分を好きと思えるか考えてみると、それは、自分が誰かの役に立っていると思える時ではないでしょうか。

反対に自分のことが好きになれないのは、自分が誰の役にも立てず、それどころか、自分は他者の妨げになり、自分さえいなければ他者は皆、仲良く楽しく生きられるのではないかというようなことを考えてしまう時です。

他者に与えるとか、貢献するということは、自分を犠牲にしたり、後回しにするということではなく、他者のために動くことが、自分にとって喜びであるということです。他者に貢献することを自己犠牲だという人は、他者のために動くことなど少しもしたことがない人ではないでしょうか。

なぜなら、ここでいう貢献とは、強いられてすることではなく、我慢してすることでもなく、自発的な営みであり、その行為によって何かを期待するようなことではないからです。

家族がくつろいでいる時に、自分はくつろがないで家事をするようなことを、自分だけが損していると思うのではなく、自分が家事をすることで、家族はくつろぐ時間を持つことができると考えてみれば、自分は家族のために役に立っていると感じることができ、そんな自分を好きになれることでしょう。

自分の見直し

アドラーは、「私は自分に価値があると思える時にだけ、勇気を持てる」といっています。この勇気とは、対人関係に立ち向かう勇気です。

しかし、自分を好きではないという人は、対人関係を避けるために、自分には価値がないと思い、自分を好きにならないでおこうと決心しているのです。ですから、自分に価値があると思えるようになる働きかけと、対人関係に取り組もうという決心の両面からのアプローチが必要になります。ただ勇気を持て、といった精神主義的な働きかけは、受け入れられないでしょう。

そのままの自分でいいというのは、実際よりも自分をよく見せたり、人の期待に応えることを止めるという意味です。人に合わせるのではなく、等身大の自分こそが自分なのだということがわかれば、ありのままの自分で出発できるでしょう。

 

所属感は基本的な欲求

私たちの一番基本的な欲求は、所属感、つまり、自分が社会、職場、学校、家庭など何らかの共同体に所属しているという感覚、自分がここにいてもいいのだという感覚です。この所属感を得ることが、人の行動の目的であるということもできます。そこで、ここにいてもよいと思えるために、あえてその中で目立たずに、他人がいっていることが多少おかしいと思えても黙っている人もあれば、問題行動をすることで注目を得るという形で、所属しようとする人もあります。

アドラーは、所属感は、ただそこにいるというだけではなく、積極的に共同体と関わることによって得られると考えていますが、自分にとって満足のいく所属感を得るためにはどうすればいいのでしょうか。これは、どうすれば自分を好きになれるのかということに関係しています。

そのままでいいのか

個人は社会のためにあるわけではないから、社会適応することはないといってみても、人は、社会的な対人関係的な文脈の中でのみ、個人になるのですから、最初から、他人との関係を離れて生きることはできないのです。もし私たちが一人で生きているのであれば、ライフスタイルも、言葉も、必要ではないのです。自分の考えや感情、してほしいことやしてほしくないことを他人に伝えるためには言葉が必要ですし、ライフスタイルも、生まれつきのもので変わらないのではなく、誰を前にするかによって、場合によってはかなり変わります。

人からの評価に左右されないことは、幸福になるために必要なことではありますが、評価される、されないはともかく、自分がどんなふうであり、どう行動するのかは、他人との関係の中で決まってくるので、先に考えてきたのとは違う意味で、そのままではよくないこともありえるのです。