悩みなんて存在しないよブログ

悩みなんて本当は無いってことをゆっくりお話ししていきます。

私には何ができるだろうか

たとえ自分がただいるというだけであっても他人から与えられており、ただ生きているだけでも他人に与えているということを知った上で、人のあり方が相互的なものである以上、可能であれば、積極的に他人に与えることに心を向けてほしいのです。自分は自分だけで完結するのではなく他人に存在を負っているからですが、それは他人も同じです。他人が何をしてくれるか、ではなく、私は他人に何ができるかを考えたいのです。

「私は可能な限り自分でできることはしよう。でも、他人が援助を依頼してくれば、可能な限り引き受けよう」

すべての人がこんなふうに思えたらこの世界はきっと変わるでしょう。

世界は危険なところか

この世界に危険がまったくないといえば、嘘になるでしょう。だからといって、過剰な不安を煽るのは間違いですし、外の世界は危険なところであることを強調しすぎると、もともと外に出たくなかった人が、世界が危険であることを外に出ない理由にしてしまいます。積極的に人と関わろうとしなくなるかもしれません。

人を取り巻くこの世界は危険ではないとまではいえなくても、自分たちを守ってくれる人もいるということのほうにこそ、注意を向けてほしいのです。

昔も今もですが、見た目が怖そうだったり、無愛想に見える若い人でも、席を占拠しているカバンをのけてくれるようにいえば、素直に応じてもらえますし、妊娠している女性を見て、率先して席を替わってくれるのも若い人が多いように思います。

一人では生きられない

人は他の人からの援助なしに自力だけで生きることはできませんので、必要な援助は求めてもいいのです。一人で生きていけないということの意味は、人が生物として弱い存在であるということだけでなく、日本語の「人間」という言葉が表しているように、初めから「人の間」にいて、他の人との結びつきを離れて生きることはできないということなのです。

他の人からの評価を気にするということは、私たちが生きることに他の人が関わっているということを意味しています。

他の人を敵と見なしている場合でも、敵対するという形で、他の人と結びついています。そのような他の人を自分の意のままにすることはできませんし、当然、相手のほうにもこうしてほしいという思いがあるわけですから、ぶつかることも起こるのです。

言葉で援助を求める

もし、相手が黙っていても、考えていること、感じていること、してほしいこと、してほしくないことが間違いなくわかれば、思いやりや気配りは美徳であるといえますが、そんなことはできないでしょう。

問題は、他の人が何もいわなくても、その人の思いや気持ちを察するべきだと考えている人が、同じことを他の人にも要求するということです。そして、それができない時に、そのような人を責めるのです。しかし、黙っていれば、他の人が自分のことをわかってくれるとは思いません。

ですから、必要なことがあれば他の人に言葉で援助を求めればいいのです。ただし、断られることもあると思っておきましょう。

他の人への働きかけ

自分は他者の、他者は自分の期待に応えるために生きているわけではないと話しましたが、他の人にしてほしいこと、してほしくないことがあっても当然です。

そんな時、他者に働きかける必要がありますが、自分と同じ権利を持った他者に、命令することはできません。

「~しなさい」はもちろんですが、「~してください」も拒むことが難しいので、命令であることに変わりありません。

そこで、相手が拒むことのできる余地を残すいい方として、「~してくれませんか」「~してくれると嬉しい(助かる)」というようにいえば、これは命令ではなく、お願いだと認識して聞いてもらえるでしょう。

とはいえ、これもその人の好意であって、義務ではないので、断られることもありえます。ですが、それを最初から無理だと決めつけずに、援助の依頼をする勇気を持って行えば、割とすんなり聞いてもらえることもあるのです。

自己中心性からの脱却

自分を必要以上によく見せることをせず、他の人の期待を満たすために生きているのではないと主張するためには、他の人も自分の期待を満たすために生きているのではないことを認める必要があります。

私は他の人の期待を裏切るかも知れませんが、他の人も自分の期待を裏切るかも知れないのです。

他の人を仲間だと思えないとすれば、他の人に誤った期待をしているということがあります。私はこれだけのことをしたのだから、他の人も同じだけのことをするべきだと考えてしまいます。

他の人が自分の期待を満たさないからといって、他の人を仲間とは思えないとすれば、このような人が自分にしか関心を持っていないのは、明らかです。

自分は世界の中心であり、自分のまわりを世界が巡っていると考えているような人は、他の人から与えられることを当然と思い、他の人が自分に何をしてくれるかということにしか関心がないわけですから、対人関係において必ず失望する時が来るでしょう。

 

他の人をどう見るか

人は自分が他者のために役に立っていると思える時、自分がここにいてもいいという所属感を得ることができ、自分のことを好きになれるという話をしました。

しかし、他の人が隙あらば自分を陥れ、自分を傷つけようとする怖い人だと思っていれば、他の人の役に立とうとは思えませんから、所属感も得られず、自分を好きになることもできません。

そこでアドラーは、他の人は「仲間」である、と考えました。

仲間であると思えるからこそ、その人に関心を持ち、貢献しよう、協力しようと思えるのです。

しかし、他の人は怖い人ではなく、必要があれば、自分を援助してくれる味方、仲間、友人だと思うことは、簡単なことではありません。

特定の相手ではなく、漠然と他の人は怖いと見る人も、他の人に近づこうとはしませんし、何か役に立つことをしてみようとは思わないでしょう。この場合、他の人が実際に怖いかどうかは重要ではなく、他の人と関わることを避けるために、他の人を怖いと見なそうと思っているのです。このような人には、他の人のことを怖いと思うことを正当化する出来事が必要です。例えば、子どもの頃にたった一度だけ、父親に殴られたことから、父親と関わっていくのを避けるというようなことです。